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平遥古城――山西商人が築いた境域の商埠

中村達雄


山西省の奥ふかくに平遥という小邑がある。そこに明清時代の城壁がそっくり残っているという話を聞いたのは、ほんの一年ほど前のことだった。北京で胡同を取材しているとき、現地の写真家が教えてくれたのである。城壁が崩れもせずに、そのまま建っているというのだ。そこには、きっと、近代以前の中国にあった人や物が醸しだす空気感のようなものが縹渺とした砂塵の舞う風景の中に漂っているに違いない。平遥へ行きたい、と思うようになったのは、明清時代へのそんなお伽めかしい感情が抑えきれないほど膨らんでしまったからにほかならない。



ユネスコ世界遺産の街へ

  北京西駅を20時41分に発車した韓城(陝西省)行き列車の切符には、「新空調軟座普快臥」という長ったらしい名前が印刷されている。新空調普通快速一等寝台列車とでも訳すのだろうか。二段式寝台でゆったりとした空間が保たれている。古い客車なので、停発車のたびにゴトンゴトンと激しく揺れ、浅い眠りから呼び戻されてしまう。「新空調」とは、使い古した列車にエアコンを装備した再生車両のことを指すのであろう。  汽笛の音を聞きながら眠ったり覚めたりしているうちに夜が明けた。夢と現が交差するなかで太原(山西省都)を通りすぎてしまったらしい。洗面する水の音が聴こえてくる。まわりの旅客はすでに起きているようだ。山西方言らしい言葉が飛び交う。何を言っているのかよくわからない。餐車隊(車内販売)のワゴンから三元で買った弁当を使っていたら、左手斜前方の車窓に土色の城壁が見えてきた。きっと、あれが平遥の街に違いない。腕時計を見ると、7時20分を指していた。  駅前広場に出ると客待ちの人力車が一斉に群がってきた。すばやく向かいの中都賓館に逃げ込み、地図や案内書などを買う。この街は1997年12月3日、ユネスコ世界遺産に指定されたので、市販されている資料は多い。案内書によれば、この街は一辺がわずか1.5キロメートルの城壁に守られた平原の小邑にすぎない。



明清の都邑

 人力車に乗って城壁の街に向う。10分ほどの道のりである。城郭の西辺にある鳳儀門(西門)をくぐると、眼前に西大街がひらける。古建築の連なる街並みは朝靄につつまれ、数十メートル先さえも霞んで見えない。明清の都邑にやってきたのだ、という実感が沸いてくる。



 大街の両傍には屋号を染め抜いた幟や提灯が、中華世界を演出する鮮やかな色彩を放っている。まだ、午前8時にもならないというのに、街は火にかけた薬缶のように沸騰し始めている。西大街を半分ほど進んだところで路南に日昇昌記票号(票号=銀行)の旧跡を認める。「記」とは、日本風に表現すれば近江屋とか大黒屋の「屋」に相当する。日昇昌記は、清の道光3年(1823)に興った中国最初の為替銀行である。驚いたことに清朝から民国期にかけて、この街には全国に影響力をおよぼす20以上の銀行が割拠した。主だったところだけでも日昇昌記以下、百川通、蔚泰厚、天成享、協和信などの雄名を挙げることができる。  『五台県志』(五台県=省北部、清光緒年間)は山西省の地勢を「晋俗以商賈為主、非棄本而逐末、土狭人満、田不足於耕也」と説明している。狭い土地に人が満ち、耕すべき田畑が足りなかったらしい。現在の山西省汾陽県に伝わる『汾州府志』(明万暦年間)にも平遥についての記載があり「平遥県地瘠薄、気剛勁、人多耕織少」と伝えている。「瘠薄」とは地味が痩せていることを指す。不毛の土地に人だけが大量に湧いた。だから、古来、平遥は諸省の貨物を商い、交易により人民の生計を立てた。そこから全国に名を馳せた晉商(山西商人)が生まれた。京津(北京と天津)から西安へ、あるいは内陸から北部辺境地帯への交通、物流の要衝であったことも、平遥に商業を栄えさせた理由のひとつであろう。



関帝と観音が天下を守る

 人力車は西大街をひたすら前進する。鳳儀門がはるか後方に退いてしまった。馭者は力強くペダルを踏み、西大街と東大街を分ける十字路を一気に右折して南大街に進入した。すると、前方に道の両傍を跨ぐように屹立する古塔が見えてきた。市楼と呼ばれる鐘鼓楼である。三層構造で、二階部分には東西南北をぐるりと瞭望できる環廊(展望回廊)があり、その南面には関帝聖大像が、北面には観音大士像がこの街の小さな天下を睥睨している。関帝は庶民の財神であり、観音は大慈大悲の徳で世人を救済する菩薩とされる。平遥の人々は、なんと有難い神々に見守られていることだろう。  市楼は明代に建立され、清の康煕27年(1688)に全面改修された。建物のすぐ北側に金の井戸があることから、金井市楼という名前でも親しまれている。街の中心、平遥のランドマークとでもいうべき象徴的な古建築である。



境域を防衛した城郭都市

 路傍で求めた山西省全図を拡げてみる。平遥はほぼ省央に位置し、それを挟むようにして東に太行山、西に呂梁山の嶺々が南北に長く展開している。そしてわずか200キロ北方には五台山(中国仏教三大霊場の一)がそびえ、その向う側には万里の長城が夷界との境界線を守っている。山西省は塞外と境を接した境域地帯なのである。  漢界(漢民族活動圏)と夷界(異民族活動圏)の境にあって、防衛と通商の機能をつかさどった中国の諸邑は城郭都市であることが多い。異民族との境域地帯に立地した都市には夷界との交流を促し、集まる物資と情報を管理、防衛する必要から堅牢な城壁が築かれたのだ。この街の城壁も、そのひとつとみて差し支えない。  平遥という邑名が中国史に登場してくるのは、西周の宣王時代(BC828ーBC782)である。当時、すでに鎮と市としての基本機能を備えていた。時代はくだって明末清初に至り、一大商城として爆発的な発展を遂げることになる。票号の隆盛がその起爆剤になったことは、すでに何度も述べた通りである。  東西を貫く東大街と西大街を肩甲骨とし、それを支える南大街が南北にのびて背骨の役割を果たしている。街はこの三大街を礎石にして縦横に発展した。南大街に日昇昌記と覇を争った銀行があった。その名を百川通記という。その旧跡は、いま、票号(銀行)博物館として一般に公開されている。  人力車は市楼をくぐり、南大街の最も繁華な地区に差しかかろうとしている。康煕42年(1703)、皇帝西巡に際し、康煕帝自らが平遥に行幸された。それを記念した書画の複製や各種土産品が路上や軒先きで売られているが、買い求める人の数は思いのほか少ない。



南大街にひしめく老字号

   民国期に編纂された『山西統計年鑑』(1933年版)によれば、当時の平遥には商標登録をした商家が585件、店員の数は3015人と記載されている。冒頭で触れたことだが、一辺がわずか1.5キロメートルの小邑に600百軒近い商家がひしめきあっていた。もっとも、全国を相手に商品を流通させていた山西商人にとって、平遥という街は彼らの商いをつかさどる交易装置の小さな部品のひとつにすぎなかったのかもしれない。  骨董商売も山西商人の重要な生業であった。外省を駆け回る票号(銀行)の営業員たちは、その豊かな資金力で各地の値打ち物(書画、骨董、工芸品など)を買い漁り、この街に大規模な古物の集散市場を築いた。清の同治16年(1890)から半世紀の間、この街で開業し老字号(老舗)に指定された古物商は10指に余り、平遥は「天下の骨董城」とも称された。

     


 散策の歩みをはやめ、先を急がなければならない。  南大街には客桟と呼ばれる商人宿が多かった。晋義客桟は骨董品の買い付け客が多く、裕泰客桟は宿泊だけでなく、商品貨物の全国発送業務も引き受けていた。その他、運送手段としての駱駝を手配する客桟などもあったといわれる。現在も天元奎客桟、日昇客桟などが往年の商人宿の名残りをとどめているが、宿泊する人のほとんどは観光に訪れた遊山客が多い。


城壁の石畳を行く

 最後に、城壁に登ってこの街を眺めてみる。  繰り返しになるが、平遥古城の築城が始まったのは西周の宣王時代(BC828?BC782)である。当時は土を盛り上げただけの城壁で、夷界の方角に当たる西北両面を防御していた。明の洪武3年(1370)から積極的な拡充が進められ、清末までに26回もの改修工事を経て現在の姿に至る。  中国の城壁都市は、何れも『周礼』の理想都市プランや陰陽五行思想、「天円地方」の概念と天文思想などに従って門の数や街路の位置、名称が決められていた。その理想型が唐の長安城である。「長安は天の秩序を地上に投影させる宇宙の都であった。地上でたった一人の人物が天からの命を受けて天子となる天命の受け皿であった」(妹尾達彦『宇宙の都から生活の都へ』)。中国の城郭都市を陰陽五行思想などに基づいて考究していくと面白いのだが、いま、それを進める紙幅の余裕がない。

   
平遥は西面に鳳儀門と永定門、東面に親翰門と太和門のそれぞれ二門を有し、北面には拱極門、南面には迎薫門をそれぞれ一門ずつ穿っている。城壁は南の迎薫門を形成する突起が亀の頭に、北の拱極門が尻尾に似ているところから、亀城とも称される。  城壁の登り口は西の鳳儀門にあった。壁上には約4メートル幅の石畳の道が整備され、徒歩か人力車で一周することができる。城壁を走る人力車から明清街の古建築を飾る優美な屋根の形状や点在する三合院、四合院の庭をのぞく。石畳の道にはわずかな勾配があり、上り坂になると馭者の息づかいが荒くなる。車輪からも苦しそうな軋み音が響く。  夕暮れが爽やかな涼風を運びはじめた。そろそろ城壁に別れを告げねばならない。去り際、奎星楼によじ登って平遥という小邑を俯瞰してみる。土地の人には悪いが亀城というユーモラスな趣きはなく、しいて言えば、時代という埃が何層にも堆積した巨大な廃虚とでもいうべき風情に満ちている。城外の鉄道駅の方角に小さな殷賑があり、暮れなずむ天地の境に田舎夜総会のネオンサインが青く、赤く明滅していた。




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