ユーラシア大陸ひとっ飛び
中村達雄


  これから、アジアの最果てに向かおうとしている。

  この旅の目的地はイスタンブル、地理学的にはアジアの最果てではなく、ヨーロッパの東端と云わなければならない。それでは、なぜ、アジアの最果て、としたのか。そのわけは、この小文を書き進むうちに明らかになるにちがいない。
 イスタンブルが最終の目的地ならば、出発地はどこなのか。それは味気なく表現すれば、たったいまこの最新鋭旅客機、トルコ航空のエアバスA三四〇が離陸した関西国際空港にほかならないなのだが、私の意識のなかではあきらかに違う。出発地というのはあることがらを始めるにあたって、期待や不安がふつふつと泡立ち始める精神的な起点のことを指す。糞醤を同列に視る愚は戒めなければならない。地理上の始発点と精神的な起点とは、やはり異なるのである。                   
 南宋の都であった臨安を旅の始まりにしよう。         
 臨安は現在の浙江省杭州市で、マルコポーロがキンサイの名で西洋に紹介し、バットゥータがハンサーと呼んだ十三世紀あるいは十四世紀の国際都市である。

懸け橋としての日本海

  右の機窓に白く波立つ日本海が輝いている。そのなかにリアス式の入り組んだ海岸線を美しく際立たせた隠岐の島々を望む。エアバスは淡路の南岸で北に大きく旋回して瀬戸内海から岡山上空に進入し、たったいま鳥取県を飛び越え、日本海に達したのだった。かつて山陰の海岸に立ってこの大海に対したとき、その縹渺として神々しくもある広大な海原に呆然とすることがあった。しかし、機窓から鳥にでもなったつもりでふわふわとこの大海原を俯瞰していると、やがて前方に朝鮮半島の陸影が見えてくる。機内誌の航路図に印刷された日本海は、半島から沿海州に沿い弧を描いてたゆとう内海である。対馬海峡と間宮海峡が細くくびれている。地図を眺めながら、勢いをつければ、ひょいっ!と跳んで渡れるかもしれない、と妄想する。近い、のである。

  上対馬にある魚瀬の海岸で、あるいは半島南岸に真珠のように散らばる多島海の島嶼から、お互いの島影を認めあうことができる。海峡はそれほどに狭いのだ。いにしえ人も、渡れるのではないか、と妄想したにちがいない。そして、中国や朝鮮半島の人や物ばかりか、これから行こうとしているアジアの最果ての気配までが海峡を越えて渡来し、日本からは人の移動とともに古伊万里などがはるか西方に旅立っていった。いにしえの人が、妄想を妄想と諦めなかったことによって果たされた異文化の交叉であろう。

エアバスは浦項(ポハン)北岸から朝鮮半島に進入し、ソウル上空で東に旋回して黄海に出た。大連沖の渤海湾をすぎれば、もう天津である。そこから北京上空を通過し、一気に内モンゴルの呼和浩特(フフホト)あたりまで飛んでいく。内蒙古に達すればそこはすで北緯42度、同緯度帯にある遥かなるイスタンブルに向け、エアバスの翼は太陽を背負って西へ進路をとる。

中国近世の百万都市

  このへんで精神的な起点、南宋の臨安に気持ちをスリップさせなくてはならない。そこは、いま、杭州とよばれる浙江省の省都である。東シナ海に向かって大きく口を開けた杭州湾の最奥部から銭塘江を遡ると、ほどなく川岸にかつての臨安が顕現する。一国の首都を拝命したことのあるこの街は、たとえば日本における奈良の都のように、いまでもそこはかとない品の良さを醸し出し、民度の高さを誇っている。銭塘江の北岸から鳳凰山を右にみて数キロも進むと、西湖の鏡面に蓮の葉が静かに揺れているのを認める。夕日を背にした柳や池亭の屋根のシルエットが水面に映り、その息をのむような美しさは凡庸な旅人をにわか詩人にする。

水光瀲艶として晴れてまさに好し 山色空濛として雨もまた奇なり
西湖をとって西子に比せんと欲すれば 淡粧濃抹総て相い宜し
西子とは、春秋末世の越国苧羅(浙江)において美女の誉れ高かった西施のことであろう。西湖が西子湖と別称される所以でもある。
モンゴル襲来前夜、臨安は百万の人口を擁す世界都市であった。マルコポーロにおくれること約半世紀、この街に到着(一三四五年)したアラブ(モロッコ)の大旅行家イブン・バットゥータはその著『三大陸周遊記』で「南海より黄河の国へ」の章に記している。
……(ハンサーは)六つの区にわかれ、それぞれが城壁に囲まれ、その外に大城壁が繞らしてあった。(中略)翌日、ユダヤ人門というのから第二市区に入った。そこにはユダヤ教徒、キリスト教徒、太陽を崇拝するトルコ族などが住み、その数も多い。この市区の長官はシナの人で、到着後第二夜はその人の邸にとまった。三日目に第三市区に入ったが、そこにはイスラム教徒が住んでいる。ここは美しく、市場もイスラム諸国における如く整えてあり、またモスクもそちこちにある……

  バットゥータの記述によれば、六区に分かれていた都市の第三区に至るまでに三日の時日を要している。現在の杭州市は、チョコレート色のタクシー、上海サンタナ号で疾走すれば、東西南北を一時間もかからずに巡ることができる。当時の国際都市臨安の壮大な規模をここに垣間見る思いがする。

  この街には、また、ユダヤ人、トルコ人、アラブ人などが中国人と混ざり住み、イスラム教やユダヤ教、キリスト教などがおだやかに折り合っていた。異民族が混住して、異なる宗教が混在する国際都市だったのである。そして、中国における歴代の諸都市の多くがそうだったように、この街もまた城郭都市であったことがバットゥータの周遊記からみてとれる。通商の必要から、集まる物資と情報を管理し、都市を防衛する堅牢な城壁が幾重にも築かれていたのだ。
ここで、もうひとつ語るべきことがある。それは中国研究の泰斗ウィットフォーゲルが『オリエンタル・ディスポティズム』の中で、いわゆる「水の理論」として提起した専制国家の成立条件である灌漑・水利施設の存在であろう。それは江南の豊な物産と洗練された文化を北に移出するため、隋の煬帝期に開削された古運河のことを指す。臨安から揚子江、淮河、黄河の三大大河を横切って北京に達する全長一七九四キロメートルの大運河は、中国史上、万里の長城と並称される大土木事業であった。 
  上に挙げた異民族の混住、大規模城郭都市、そして灌漑水利施設などは、驚くことに、これから訪れようとしているイスタンブル(コンスタンティノープル)の魅力を説明する要素でもあるらしい。このことは、後でふれる。北緯三十度の臨安から四十二度のイスタンブルにいたる文明発祥、都市形成の黄金ベルト地帯とでも云うべき南北わずか十二度域内の東と西に、同時期、世界帝国の首都が並存し、同じような都市相を形成していたことは、ユーラシアの両極に興った歴史の奇跡と云わざるをえない。
  旅程を先に進めよう。なにしろ、これからイスタンブルまで九千キロの旅をしなければならないのだ。

翼よ、あれがバルハシ湖だ!

 追憶の世界を俳諧して臨安の面影を追いかけているうちに、エアバスは内蒙古の包頭(パオトウ)上空を通過し、砂漠の南に展開する祁連山脈に沿って西進している。気流の悪いところを通過しているのだろう。機体は、地図を指すペン先が左右に大きくぶれてしまうほど激しく揺れている。
 
トルコ航空のローマ字コードは「THY」である。出発前、これは「とても、ひどく、揺れる」の頭文字をとったのだと悪口を云う人がいたが、諧謔の利いた戯れ言にすぎない。
 エアバスの航路は、面白いことに、スウェーデンの大探検家スヴェン・ヘディンに招かれて中央アジア探検隊の一員となったハズルンドが分隊として担当した蒙古・新疆ルートとぴたり一致している。このことは、私に今次の旅を思いつかせた理由のひとつと云ってもいい。七十年以上も前に大探検家がたどった道程を、せめて空からでも敷衍してみたいと思ったのだ。それほどに私の中央アジアに対する思いは強く、ヘディンやハズルンドの航跡に嫉妬さえ覚えていたのである。          

 ヘディンの中央アジア探検は一九二七〜三〇年にかけて敢行され、分隊としてハズルンドが分け入った蒙古・新疆地域への調査行は張家口(直隷=河北省)から北上して内蒙古の呼和浩特を経由し、包頭、バイシャンダイスメ、カラヂヤ、カラコト、哈蜜(ハミ)、ウルムチを経てチュグチャクへと北上していく。ウルムチまでの行程はこれまでに何度か地上を歩いたことがあるので、機窓のシェードを降ろして時差ぼけ予防の眠りに入る。ランチとディナーを繋ぐおにぎりサービスが始まって美人乗務員に起されたのは、ウルムチ郊外の石河子(シーホーヅ)をすぎてエビノール湖にさしかかるころだった。このあたりからしばらくは湖三昧である。超乾燥地帯にいくつもの湖沼が点在している。大自然のシステムは、なぜ、こんなにも調和がとれているのだろう。同行の貝塚茂樹君(大学の同学、あの著名な歴史学者ではない)がしきりに鼻をかんでいる。乗務員の香水が強すぎて、鼻が腐りそうだ、とぼやいているのだ。過敏症の持病がある私も、そう思った。気密性の高いキャビンでは、せめて微香性の液をふってほしい。

 機窓にアラコル湖が映り始めた。エアバスはすでに中国国境を越え、カザフスタン領を飛んでいる。ここは、もう、中央アジアである。やがて東西五百キロメートルにも達するバルハシ湖の尻尾が視界に入ってきた。この湖は、海馬(竜の落し子)が砂漠に横たわったような形をしていて興味深い。荒涼とした大地に湖面が藍天を映し、白く青く光っている。その不思議な光景に、しばらく言葉を失う。機内サービスの乗務員が行き交うたびに、毒矢のような香気が鼻腔を攻撃してきて煩わしい。海馬の頭が翼の後ろに消えた。ふたたび乾燥の大地!人為的に掻かれた直線が幾筋もランダムに走る。遊牧民の生活道路であろう。そんな風景が一千五百キロメートル、約二時間ほどもつづくのだ。また、うとうとする。次に眼が覚めたときには、アラル海が後方に飛び去ろうとしていた。トルコ航空機はすでにウズベキスタンの上空にある。もうすぐカスピ海に到達するはずだ。まだ地図でしかみたことのない、ユーラシアに塩水をたたえる大海。エアバスはトルクメニスタン領に属するカスピ海東岸の上空一万メートルを成層圏の大気を切り裂きながらバクーをめざして疾飛している。バクーはカスピ海西岸に位置するアゼルバイジャンの首都で、その緑豊な風景を時差に疲れた瞳のこやしにしていると、すでに中央アジアが終わりつつあることに気づかされ、すこし悲しい。すぐ隣国はアルメニアであろう。この国には芳醇なコニャックがあったことを思い出し、香水美人にたずねてみれば、あいにく搭載していないという。アルメニアをすぎると、エアバスは残雪を戴いた山脈にそい、燕のようにまっすぐトルコ領を西に飛翔する。



アララート山の雄姿

 アナトリアは東高西低の大地だ。その東の高みを象徴するのがマウント・アララート(五一六五m)であろう。ノアの方舟が漂着したという神山である。いま、左の機窓に天を突く名山が見えている。アララート山にちがいない。稜線の左にこぶのような小山を認める。あれは、小アララートとよばれ、それらの山ぶりがしみじみと美しい。

 十九世紀後半、ロシアの探検隊がこの山の登攀に成功し、そのとき、頂上付近に船の残骸を発見したと伝えられている。ほんとうかしら。真偽はときとして深く追い求めないほうがお伽めかしく、かえって夢がふくらむことがある。アナトリアの大地はアララート山を頂点とし、ヨーロッパを含む以西にこの山をこえる高山はない。

 ノアの神山が後方に遠ざかっていく。うすくたなびく雲の切れ間に、大型集落が広がっている。ここはエルズルムの上空あたりだろうか。右手にはトラブソンとかサムスンの港町があるはずだが、飛行機はアナトリアの懐深く飛んでいるので、黒海を望むことはできない。シバス、カイセリ、クルッカレと進む航路上には姿の美しい山並みがつづき、それらの斜面に山城が散見される。ヒッタイト王国の廃墟であろうか。アンカラを越えるとまもなく、一筋の河川が西行しているのを認める。トルコ共和国の父、ケマル・アタチュルクは、英国に後押しされたギリシャ軍をここで撃退した。歴史はこれをサカリア河の戦い、とよぶ。ブルサ上空に達したエアバスは翼をふって機首を西北に向け、一路、マルマラ海にむかう。アジアの東端から始まった十二時間の空の旅が終わろうとしている。イスタンブルは、もう目と鼻のさきだ。

マルマラ海にしずむ夕日

 かつて、コンスタンティノープルと称されたこの都市を、日本語では君府とよぶ。ビザンティンの栄華を敬して余りある美称ではないか。オスマントルコ帝国のメフメット二世がコンスタンティノープルを攻略し、熟柿のようにおちたこの街とともに東ローマ帝国も崩壊した。やがて、コンスタンティノープルという名前がイスタンブルに改められても、日本人は近代に至るまで君府という栄えある旧名を使いつづけた。

  マルマラ海に落ちる夕日が鏡のような海面に反射して黄金色に輝き、往き交う船舶はその光の中で、一瞬、モノクロームのシルエットになる。ボスフォラス海峡の潮は、ゆるやかに蛇行しながらまだ見ぬ黒海にむかって流れていく。トルコ航空機がフライトの終わりを誇るかのように翼を揺らしながらファイナルアプローチに入りはじめた。かつて、コンスタンティノープルとよばれた旧市街からの接近である。黄昏の斜光にモスクの尖塔(ミナレット)が長い影を引いて幻想的である。海からの敵を阻んだ城壁のなごりがあちこちに散見される。右手はるかに、古代からこの都市を潤した水道橋の水利施設も見える。ビザンツ帝国時代、異教徒に属するジェノヴァ商人が住んだのは、ハリーチ(金角)湾を南北に結ぶガラタ橋のむこうの新市街だった。いま、ガラタ塔がその残り香を現代に伝えている。この街も、また、連綿と続いてきた歴史の中で、南宋の臨安と同じように異民族が混ざり住み、異なる宗教が混在し、城壁に護られ、専制国家の条件とされる灌漑・水利施設が機能してきたのだ。
  エアバスA340は十二時間の飛行を終えてイスタンブルに到着した。空港から旧市街を通り抜けてガラタ橋のたもとまで迎えのバスに乗り、荷物はガイドに託してホテルに届け、アジアサイドのユスキュダルが見える海浜のプロムナードを歩いてみる。潮風が肌に心地よい。いまいる地区はボスフォラス海峡とマルマラ海に隔てられたヨーロッパの東端に位置するのだが、そこに吹く風や漂う空気感は対岸のユスキュダルからアナトリアを経てカスピ海を越え、はるかユーラシアの東端に連なる湿潤な東アジアの香りに満ちている。私にそう感じさせたのは、この国の人々が歴史のなかで私たちと同じ大地を共有し、アジアの民としての遺伝子を濃厚に宿しているからだろう。オスマン帝国末期のヨーロッパ志向、アタチュルクの近代化政策はこの街に西洋の表面を導入したが、明治維新で近代国家の仲間入りを果たした日本人がメンタルな部分では、なお、アジア人でありつづけているように、この街の人たちもアジアの心に誇りを抱いている。ここは、まぎれもないアジアなのだ。アジアの最果てなのである。

 暮れなずむイスタンブルの空に屹立するモスクのミナレットに眼をやると、そこから一日の終わりの礼拝を促す宗教者の声が拡声器を通して流れてきた。その金属的な音声を聞いたとき、私は明日から始まるアナトリアへの日程を前にして、もう旅の大半を終えてしまったかのような満足感を覚えるのだった。
 

トップページへ