岳陽――洞庭湖畔の古鎮(1)

 岳陽の町は、洞庭湖の東岸を南北にのびている。むかしから幾多の文人や詩人がここに逗留して詩詞をものし、それらの多くは歴史の淘汰をくぐりぬけて今に伝えられている。中国名詩選や唐詩選などをひもとくと、岳陽や洞庭湖を詠んだ歌の豊富なことに驚かされる。なぜ、それほどまでにたくさんの文人や詩人がこの辺鄙な小邑にやってきたのだろう。どうも、それは中国大陸における岳陽の立地と関係しているようだ。

       地図を開くと一目瞭然なのだが、岳陽は中国のへそとも云える湖南省の北部に位置し、揚子江(長江)の水圧で動脈瘤のように膨れた湖を擁している。古来、洞庭湖の水運は四通八達し、江西、湖北、四川は云うまでもなく、湘江などを伝って貴州、雲南、浙江、福建、広東方面まで移動することができた。あるいは揚子江を介して大運河に漕ぎ入れば、江蘇、河南、山東、河北などの北部中国にも行けたのである。清末、広西桂平県の金田村に挙兵した太平天国軍は湘江を遡行して洞庭湖に達し、岳陽で拡軍した。ここで水軍を主力とする兵力を激増させたのである。
現在、岳陽を訪れる遊山客は思いのほか少ない。中国好きの日本人でさえ、その数は年間を通じて一千人に満たないのではないか。近代以降、時代は水運よりも利便のよい鉄道や航空を交通の花形にした。ために陸路も空路も不便な立地は、この町を陸の孤島に格下げしたにちがいない。


京広鉄道の旅

 羅湖駅から鉄路の旅客になる。数少ない岳陽止まりの特急寝台だ。航空機の直行便はない。晩の10時前に発車した列車は日付が変わるころ広州東駅を通過し、そこから京広線を北へ驀進する。眠っている間に韶関を経て広東省から湖南省に入り、やがて朝になった。同室の青年が降り支度を済ませてそわそわしている。なかなか衡陽に着かないというのだ。夜間になにか不具合でもあったのか、列車は予定を一時間ほど遅れて走っていた。衡陽の次は株洲に停車する。あまり馴染みのない駅名だが、江西や上海、貴州、雲南へむかう車両はここで線路を乗り換える。南中国における鉄路の要衝であるらしい。列車は湖南省の省都長沙をすぎ、最後の行程を北進する。やがて左の車窓に小さな河川や湖沼が頻繁に展開し始める。洞庭湖が近くなってきたのだろう。楚の屈原が投身した汨羅江は岳陽南郊を流れ、静かに湘江へ注ぐ。汨羅をすぎれば、目的地はもう目と鼻のさきだ。正午近く、列車は1001キロの遠路を14時間かかって岳陽駅にすべりこんだ。

 駅前広場は、中国の他の諸都市と同じようにささくれだった雑踏におおわれている。中国に長く生活していると、蝿のように鬱陶しい客引きにも慣れてくるから恐ろしい。このごろはタクシーの悪徳運転手よりもこちらの悪知恵のほうが数段も上まわり、すれてしまったものだ、と自分に悲しくなる。站前路(駅前通り)を流している車をひろって宿舎にむかう。駅やホテルで客待ちしているタクシーよりも、街路を流している運転手の方がはるかにまじめであることは、この国に暮らしている者ならたれでも経験的に知っているのだ。沿海都市から払い下げられた旧式の上海サンタナは岳陽の町を東西に貫通するメインストリートの巴陵路を東にむかう。

                  
5分も走ると道は洞庭路にぶつかった。駅周辺の繁華街は散らかった感じのするざらついた町並みであったが、湖畔を南北に縦走するこの街路は清代の建築物が連なり、その落ち着いた風情が好ましい。車は岳陽楼公園の至近にある岳陽楼賓館の門前に止まった。小規模な安宿だが、服務員には素朴な親切の心があり、改装したばかりの客室は質素な清潔感にあふれている。繁華な中心街ではなく、ホテル近辺の洞庭路界隈がこの町の品格を守っているようだ。


岳陽楼に登る

 江南には三大名楼とよばれる古建築がそびえている。武漢の黄鶴楼、南昌の滕王楼、そしてここ岳陽楼である。魏、呉、蜀の三国が鼎立した時代、呉の名将魯粛が建安20(西暦215)年、水軍の訓練と閲兵、当地の鎮守を目的として建てた閲軍楼が岳陽楼の前身であるらしい。水軍は当然のことながら洞庭湖を根城にした。湖面に浮かぶ水軍を閲兵するには高度が必要になる。だから、岳陽楼は湖畔の丘の上に高くそびえていた。魯粛は、劉備(蜀)と謀って曹操(魏)指揮下の兵船や陣営を焼き討ちした赤壁の戦いで現代にも知られる。その赤壁は、岳陽の北東およそ100キロの京広線沿いにある。
 岳陽城を構成する古建築群は、いま、岳陽楼公園とよばれる管理区域内に大事に保存されている。入園するとまず眼に飛び込んでくるのが碑廊とよばれる廻廊風の建物である。65枚の石碑を嵌め込んだL字型の建屋は中庭を包み込むようにたたずみ、見学者に心地よい日陰を作ってくれる。すぐ左手に屹立する岳陽楼への登楼は後の楽しみとし、楼壁に穿たれた岳陽門をくぐって湖畔に降りていく。20メートルほどのトンネルになっている。かつて洞庭湖から岳陽城に入るには、この門以外の道はなかった。東西南北への水運が盛んだった湖に対して堅牢な護りを固めていたことがわかる。
 門を出ると急峻な階段が続き、それを降りきった湖辺に点将台とよばれる舞台がある。あいにく門扉で堅く閉ざされ、鉄格子を隔ててしか見ることができない。点将台とは水軍の将兵を点呼した場所のことであろう。そこから30メートルほど離れたところに「鉄枷」が安置してあった。長さ2.6m、厚さ0.34m、重量3.5トンのX字形をした鉄塊で、現存する3枚のうちの1枚がここに展示されている。北宋時代に編まれた岳陽風土記はすでにこの鉄枷を「古物」と記しているが、はたしてどの時代に造られたものなのかは不明であるらしい。中央部などに幾つかの丸穴が穿たれているので、兵船の繋索に使われたとか、湖の護岸、あるいは鎮邪(悪病予防)など幾つかの説が唱えられている。諸説はいずれもお伽めかしく、本当のところはよくわからない。
 湖畔の石畳にそって南に歩を進めると、ほどなく湖亭に行き当たる。懐甫堂である。杜甫は漂泊の旅のさなか岳陽楼に登り、いまなお北方で止まない戦火を憂い、老病のわが身の孤独に涕した。

  昔聞洞庭水 今上岳陽楼
  呉楚東南圻 乾坤日夜浮
  親朋無一字 老病有孤舟
  戎馬関山北 憑軒涕泗流

 盛唐の大暦3(768)年、杜甫は成都の草堂を後にして揚子江の山峡を下り、病をおして北帰を試みたが内乱に阻まれて果たせず、岳州(岳陽)に至った。昔から聞いていた洞庭湖をいま高楼からながめる。呉(江蘇省南部)と楚(湖南省北部)の国が湖によって分かたれ、湖面は昼夜の区別なく天地を映している。友からは一通の便りもとどかず、老病のわが身にはただ一艘の小船があるのみ。故郷の北方では今なお戦乱が止まず、高楼の欄干にもたれて彼方を見やれば、望郷の涙がとめどなくあふれる。杜甫57歳のときの作である。
 
  

 小亭の中央には『登岳陽楼』の詩文を刻した石碑が立ち、亭屋には革命の元老朱徳が揮毫した《懐甫堂》の雄渾な三文字の扁額が懸かっている。
 ふたたび門をくぐって岳陽楼にもどり、いよいよ登楼する。ゆるかな弧を描いて藍天に撥ねあがった屋根の形状が美しい。その優美さに、しばらく言葉を失う。屋根瓦のむこうがわには岳陽楼埠頭がすぐそこに見える。桟橋から広がる遥かな水面に君山の影が煙っている。明日は湖を越え、あそこにむかう。




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